ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

年上を敬え

古代ローマの哲学者セネカが残した『生の短さについて』”De brevitate vitae”という書簡がある。大学に入学したてのころだったか、初めて読んで以来ずっと座右の書で、しばしば読み返したり、語学学習にも活用してきた、僕にとっては欠かせない一冊である。というのも、最初は当然日本語で読んだわけだが、語彙を増やすためにイタリア語訳で読んでみたりもしたからだ。文庫でせいぜい数十ページしかないので、あまり気構えずに手に取れるのもよかった。そして今回、ラテン語の学習も兼ねて、原文のラテン語で読むことにしたわけだ。

この本は何度読んでも味わい深い。短い書簡ではあるのだが、決して内容が薄いということはなく、むしろ単語の一つ一つまで頭に刻み込んでおくべきだと言っても過言ではない稀有な書である。2000年前の賢人の言葉が、今日に至るまで時の試練を耐え、失われることなく連綿と受け継がれてきたのは、やはりそこに深い洞察と、よりよく生きるための手がかりがあるからに他ならないだろう。

内容は簡潔に言えば、「人生は浪費すれば短いが、活用すれば偉大なことを成すのに十分なほど長い」、ということである。くだらない飲み会やら、情欲やら、取るに足らない用事やら、長期に渡って実現するかもわからない計画を練ったりすることやら、ともかく無意味なことに時間を浪費するな、とセネカは説く。そして、もっと有益なこと、特に過去の偉人たちの声に耳を傾けることで、精神を修養せよ、と。そうすれば人生は十分に長くなるのだから。

というわけで、僕が気に入っている段落をひとつ、引用してみよう。

Non est itaque quod quemquam propter canos aut rugas putes diu vixisse: non ille diu vixit, sed diu fuit. Quid enim, si illum multum putes navigasse quem saeva tempestas a portu exceptum huc et illuc tulit ac vicibus ventorum ex diverso furentium per eadem spatia in orbem egit? Non ille multum navigavit, sed multum iactatus est.

誰かに白髪やしわがあるからといって、その人が長く生きたと考えてはいけない。長く生きたのではなく、 長く存在したに過ぎないからだ。たとえば、港から出たばかりの船を激しい嵐が襲って、四方から吹き散らす風に押されて、同じところをぐるぐると回ったとしたら、その人は長く航海したと言えるだろうか。それは長く航海したというわけではなく、大いに翻弄されたに過ぎないのだ。

世の中には「年上を敬え」などと威張り散らす”年上”の方々が少なからずいるが、年上であることを理由にふんぞり返るような輩は、「長く存在した」ことしか誇るものがないような輩なのである。年の数が増えれば無条件で尊敬と年の功がついてくると勘違いしたたわけ者に遭遇したら、この言葉を思い出して心の中でマウントを取ろう。

『ガリア戦記』を読む

あまりにも有名なので説明するまでもないと思うが、『ガリア戦記』はローマの軍人だったユリウス・カエサルが、ガリア戦争への遠征記録を自らの手で書き記したものである。3月からラテン文学の授業があるので、最近おろそかにしていたラテン語に触れておくために、これを手にとったわけだ。

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イタリアにはRizzoliという出版社があり、そこが出しているBURという文庫シリーズで各種古典文学を安く手に入れることができる。ほかにも似たような文庫はあるのだが、僕の持っている『ガリア戦記』はBURのそれである。そしてラテン語や古典ギリシャ語の作品は対訳になっているものが多い。写真も、左のページがラテン語、右がそのイタリア語訳になっている。これが僕のような学習者にとっては便利で、原文で躓いたり理解に自信のないときはすぐに対訳を参照できるのがありがたい。まあ、日本の古典も原文と現代語訳が対訳になっていたりするので、似たようなものだろう。しかし油断していると、いつの間にかずっと対訳だけを読んでいるということになったりもするので気をつけなければいけない。

とはいえカエサルラテン語は比較的易しいので、そこまで困ることはない。ラテン文学は紀元前1世紀から紀元後1世紀がおおまかに言って黄金時代で、古典ラテン語で書かれた文学の最盛期とされるのだが、この時代のヴェルギリウスオウィディウスキケローなどと比べれば、同時代のカエサルは一番読みやすい部類なのである。そもそも散文で書かれているのでわかりやすいということもあるが、背景がわりと明確であることも読解を容易にしてくれる。つまり、『ガリア戦記』などはカエサルの戦争の記録なので、その背景を踏まえると必要な語彙も比較的限られてくる。そんなわけで、高校などでラテン語を学ぶ生徒が最初に読まされるラテン語作品はしばしばカエサルが使われるらしい。カリキュラムについて、詳しいことはわからないが。

ともかく、実際に読んでみると、『ガリア戦記』はわかりやすい。まず、主語がよくわからなければとりあえずカエサルが主語だろうと推測して読めばたいていなんとかなる。単語の意味がわからなくても、殺戮とか城塞とか戦争に関わる物騒な単語だと文脈から想像がつきやすい。その文脈にしても、ガリア人の〇〇族がカエサルのもとへやってきて□□と言った、カエサルはXXと返答した、というようにある種定型的なものが多い。わりとよく敵を撃破したり撃破されたり、人質をとったりとられたりしている。そういう意味でカエサルは読みやすい。おすすめです。

イタリアの公的医療保険SSNに加入する

全く面白い話ではないのだが、前回の記事から約3ヶ月に渡り何も書いていないので、たまには更新してこのブログがまだ生きているということを全ワールド・ワイド・ウェブに対してアピールする。

イタリアには日本の国民健康保険にあたる、SSN = Servizio Sanitario Nazionaleという公的医療保険制度がある。イタリア国民は誰もが無料で加入している制度なのだが、外国人居住者であっても一定金額さえ支払えばその恩恵に与ることができる。そしてこの制度に加入すると、公的医療を無料で受けられるうえに、「かかりつけ医」というものを選択することで、何か病気をしたときには受診できるようになっている。僕は今日、ASLと呼ばれる地域の保健局の窓口で加入手続きをした際に、家から150mくらいのところの医者をかかりつけ医として選択した。お腹が痛くなったりしたらこの先生のお世話になるのだろう。ちなみに電話で往診を依頼することもできるらしい。これが全部無料なのだからイタリアの公的医療保険制度は意外と頑張っている。

さてこのSSNに加入しようと思う方がこのワールド・ワイド・ウェブ上には存在するかもしれないので、自らの備忘録も兼ねて、手続きについて記しておく。

まずは必要な書類を用意する:

  • パスポートおよびそのコピー
  • 滞在許可証およびそのコピー。滞在許可証申請中であれば、郵便局から渡される半券。
  • Codice fiscaleおよびそのコピー。Agenzie delle Entrateでもらえる。
  • Autodichiarazione di residenza。居住地の自己証明書類。ググるとフォーマットが見つかる
  • (学生であれば)在学証明書
  • 保険料を振り込んだ際の領収書

保険料は学生の場合149.77ユーロだが、自営業者などは所得によって変わる。振り込みはBollettino postaleで行う。振込先は地域ごとに異なるが、ネットで探せば出てくるだろう。

さて書類の用意が済んだら、自分の地域のASLの窓口へ向かう。そのためには自宅の住所がどこのASLの管轄区域にあたるのか確認しておく必要がある。

あとはASLの窓口でSSNに登録したい旨を伝えれば手続きしてくれるはずだ。ここでMedico di base=かかりつけ医を選ぶことになるのだが、特にこだわりがなければ「家に近い医者にしてくれ」と言えば良いし、女性の先生がいいとか、若い先生がいいとか、要件があるのなら事前に調べておくことをおすすめする。友人は事前に医者と面談してかかりつけ医を決めたと言っていたので、こだわるならば医者に連絡してもいいだろう。

登録がすめば仮のTessera sanitaria = 保険証としてA4一枚の登録証明書のようなものがもらえる。これさえあれば一応かかりつけ医に診てもらうことはできるらしい。Tessera sanitaria自体は一ヶ月以内に自宅へ郵送される。

日本語学徒は変わった人が多い

これは全くもって個人的な偏見なのだが、日本語の学生は変わった人が多い。もちろん悪意はない。

僕個人の感覚的な調査結果では、日本語を勉強しているとか、日本に興味がある、というイタリア人学生はおおまかに3つのカテゴリーに分けられる。まず、黒澤明だったり、茶道だったり、俳句だったり、大雑把な言い方ではあるが、“日本の伝統美”に惹かれている学生である。次に、現代日本の文学に興味のある学生だ。この場合、彼らが日本に関心を持ったきっかけはなぜか吉本ばななであることが多い。そして最後に、言うまでもなく日本語を学ぶ学生の大多数を占めるのが、アニメ・漫画好きである。

この第三のカテゴリーはさらに2つの下位カテゴリーに分類することが可能である。ひとつは、ドラゴンボールキャプテン翼など、日本でも誰もが名前くらいは知っていて、かつイタリアでもテレビで放送されていたようなアニメでなんとなく興味を持った、くらいのカジュアルな層である。もうひとつは、ここからさらに踏み込んで、ディープな世界に踏み込んだ人たち、言い換えればアニメ・漫画オタクと化した人々だ。もちろん、彼らがアニメ・漫画に興味があるという事実それ自体は悪いことではないのだが、僕は個人的にはアニメ・漫画に大した情熱も興味もないタイプの人間であるため、『NARUTO』であればナルトがイジメを受けて一人寂しくブランコに乗っているごく初期のシーンしか知らないし、『ドラゴンボール』であれば戦闘力53万がどうやら恐ろしい数字であるらしいことくらいしか知らないので、僕が日本人であるという理由でアニメ・漫画の話題を振られると少し困ってしまうのである。ブラックジャック』『はだしのゲンの話題ならかかってこい、という構えはあるのだが、どうやらイタリアには学校の図書室でこれらの作品を読む文化はないらしい。

さて、どうしてこんなことを書くのかというと、実はつい最近、大学で日本語を学んでいる僕の知り合いAと話す機会があったからだ。なんでも、彼女自身の言うところによれば「入学して日本語を学び始めた頃は、本当にコース選択を間違えたと思った」そうである。なぜなら、「髪の毛を青や緑に染めていたり、変な制服を着ていたり、とにかくアニメの世界から飛び出してきたかのような同級生ばかり」で、「自分を含めてごくわずかしかまともな学生がいなかった」からだという。すごくよくわかる。たしかに、“変わった人”に限って日本語の学生なんだよな。繰り返すが悪い意味で言っているのではない。しかし、いまになって彼女の発言を思い出してもニヤニヤできるくらいには面白い。

しかし、そんなAも結局はコースを変えることもなく、大半の科目の試験を終え、残るわずかな科目さえ済ませれば晴れて大学を卒業となる。そして、残されている科目というのは日本語である。どうにもAは日本語が苦手らしく、「最後の最後まで試験を残してしまった」のだそうだ。まあ、ポジティブに捉えれば、いまや日本語の勉強だけに集中することができるのだから、コツコツやればいいじゃないか、などと思いながら話を聞いていると、Aはこう切り出した。「ねえ、私の代わりに試験受けてくれない?」。もちろん冗談だと思った僕は、「そうだねぇ〜いきなり30点(イタリアの大学の試験は30点満点である)だと怪しまれちゃうから、24点ぐらいに調整してあげるよ」などと冗談めかして請け負った。そして結局、その日はそれ以上この話題が続くことはなかった。

しかし数日後、僕の彼女を通じて(Aは僕の彼女の友人でもある)、Aが本気だったことが明かされる。彼女のもとにAは「もしかして本当に代打で試験受けてくれないかな?」などとメッセージを送ったのである。コロナ禍にあって日本語の筆記試験も遠隔で行われるので、「カメラで私だけ映るようにするから、画面に映らないところから答えをサジェストしてほしい」というのだ。お前は一体何を言っているんだ。たしかに、Aはすでに「もう数えるのもやめた」と言うくらいに日本語の試験に落第しているし、僕もそれを知っているから助けてもあげたいし、気持ちはわからないでもないが、だめなものはだめだ。助けるにしても、こんな間違ったやり方で助けるわけにはいかない。ということで、丁重にお断りさせていただく。しかし君、自分はごく少ないまともな学生の一人だったと言った口で一体なんというお願いをしてくるのか。

 

ナポリの行く末を憂う

先週半ばくらいからロックダウンをするとかしないとか、レッドゾーンを指定するとかしないとかで、イタリア政府と州との間で激しい議論があり、あまりにも話がまとまらないので、日曜日くらいには対応が決まっているはずだったのが、今日になってようやく首相令が出た。

僕としてはレッドゾーンの話が出た時点で、我がカンパニア州は当然、そのような地域として指定されるだろうと思っていた。当初は、とくに感染が拡大している地域をレッドゾーンとして、厳格なロックダウンを行う、というような話だったからだ。実際、先週の時点でカンパニア州は一日あたりの新規感染者数が3,000人を超えていたし、検査数に対する陽性率も17%だとか極めて高いうえに、一向に収束の気配を見せていなかった。

ところが、今朝になって、カンパニア州はオレンジゾーンの指定を受けることになりそうだと報道が出始めた。オレンジゾーンってなんだよ。読むと、地域の状況に応じて、レッドゾーン、オレンジゾーン、グリーンゾーンの三段階の色分けをすることにしたという。つまり、カンパニア州は深刻な状況だが、レッドゾーンに指定するほどの状況ではないということ、だったらしい。それもどうかと思うが、いずれにせよオレンジゾーンはレッドゾーンとたいして変わらず、コムーネ間の移動ができなかったり、レストランが封鎖されたりするので、実質的にはロックダウンされるようなものである。細かいことを言えば、営業が禁じられる商店の範囲などいくつか差があるのだが、自由に隣町へも行けないような状態で、たとえば服屋が営業できたとしても、一体どれだけ営業する意味があるのかは謎である。なおグリーンゾーンは、感染状況が比較的穏やかな地域で、夜間の外出禁止や休日の店舗の営業などにいくつか制限があるものの、基本的には移動の自由は制限されない、というものだった。

さて、ついさっきようやく首相令がまとまると、カンパニア州はなんとイエローゾーンに指定された。イエローゾーン?どこから出てきたんだお前は。どうやら、レッドゾーン、オレンジゾーンに加えて、イエローゾーンを指定することにしたらしい。つまり、先のグリーンゾーンを名称だけ置き換えただけだ。すなわちカンパニア州は一番感染状況がマシな部類とされたわけである。そんなバカな話があるだろうか?今日も元気に4,000人の感染者を記録し、毎週50%ずつ感染者数が増えている(そしてこの増加率はイタリアで文句なしの最悪である)のに、イエローゾーン?冗談ではない。だいたい、数週間前には州知事のDe Luca氏が「カンパニアはすぐにでもロックダウンするぞ」と凄んでいたではないか。あれだけ煽っていたくせに、いざ市民から批判が続出したから、政府に抵抗したのだろうか。わからない。意味がわからない。そのうち今回の分類の根拠が公開されるらしいので、是非とも確認したいのだが、一体どんなロジックがあったのか全く想像もつかない。

いずれにせよこれでカンパニア州はロックダウンを回避した。飲食店は18時までの営業に制限されるが、封鎖されることもない。また、移動の自由も基本的には制限されない。しかし、決して良い結果はもたらさないだろう。結局、政府も州も、何もかも中途半端にしてしまったのだ。数週間前、抗議活動がおきたとき、人々は「封鎖するなら補償しろ」と声を上げた。政治家たちは、人々の望みを上手に誤解したのだろう。イエローゾーンのカンパニア州では日中の街は封鎖されないので、店舗の営業は理論的には続けられる。だが現実的に商売として成立するだろうか?しかも、封鎖されていない以上、どのような補償があるかは不透明である。また、感染拡大に急激な抑制をかけられるとも思わない。つまり、封鎖も補償も感染抑制もすべて中途半端にされたわけだ。