ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

Homo sum.

今期、ぼくはイタリアの地理の授業を受けていて、テーマとして移民やらイタリアにおける環境主義の目覚め、持続可能な開発、などが扱われている。どれもとても重要なテーマなのだが、しばしば、これらのメインテーマから派生する話題へと教授の話が横道にそれていく。たとえば、南北格差とか貧困とかいった話題だ。そして、そうした脱線話のたびに、僕を含めた学生たちは恥辱に塗れることになる。どういうことか?

たとえば、南北格差。「世界の南側では、毎年1,500万人が餓死している一方で、北側では4分に1回、低カロリー食品の宣伝がされている」と教授は話し始める。「1,500万人ですよ。私には、たった一人でも、お腹を空かせて死んでいくなんて考えるだけでも耐えられない」と彼女は言う。いや、至極当たり前かつ、平凡なことを言っているにすぎない。けれども教授は実際に、この「不正」と戦うために数々のボランティア活動をこなしているから、言葉の重みが違う。そして続ける。「私達は皆、ここにいる我々もですよ、全員、恥を知るべきですよ。なぜなら、まさにこの不平等という不正を享受しているのですから」。こうして僕たちは恥を知らされる。人間としての連帯感に欠けているという事実、不正を享受しているという当たり前の事実を、改めて突きつけられる。そうして、月曜日の朝から恥辱に塗れて、恥ずかしい気持ちで一週間を過ごすことになる。

金曜日にも、同じ地理の授業がある。またしても教授の話は脱線する。今度は難民だ。ヨーロッパへはシリアやサブサハラなどから難民が押し寄せている。ヨーロッパはどう対応したか?国境を封鎖した。金を払ってトルコに収容所を作らせた。そのせいでヨーロッパはクルド人迫害を止められない。なぜか?トルコが難民を脅しの材料にするからだ。トルコが300万の難民を解放すれば、ヨーロッパは大混乱に陥る。「私達は皆、ここにいる我々も例外なく、恥を知るべきですよ」。またしても教授は言う。さらに話は続く。アフリカからは、ゴムボートで地中海を渡ろうとして多くの難民が溺死している。「たった一人であっても、難民になって溺れ死ぬなんていうのは、私には耐えられませんけどね」。またしても極めて平凡な発言で僕たちの良心を目覚めさせようとしてくる。「ところで先日ね、ある人にこう言われたんですよ。『神は私達をお赦しになるでしょうか』。いや、赦すわけないでしょう。神がいるとすれば。だって、カトリックが教会に行って、でも難民は海で溺れさせたり、あるいは『移民・難民はイタリアを侵略している』云々言ってみたり、赦されるわけないでしょう。私は言いたい、恥ずかしくないんですかと。これはもう人間として一番深いところの問題ですよ」。こうして金曜日にも僕たちは恥辱を感じることになる。人間性を問われ、最も深いところにある良心を呼び起こされ、自分たちが、仲間を溺れるがままにしたり、飢えて死ぬがままにしたりしていることを突きつけられて、恥辱に塗れた一週間を終える。週末も心にわだかまりを抱えて過ごし、次の月曜日にはまた新たな恥を知らされる。

 タイトルの"Homo sum."「私は人間である」という意味のラテン語の格言で、ローマの作家テレンティウスの言葉だ。"Humani nil a me alienum puto."「人間に関わることは何であれ私に無関係ではないと思う」と続く。このあまりにも有名な言葉は、ありとあらゆるところで引用されてきた。いわばヨーロッパの精神の根幹を表す言葉と言えよう。ヨーロッパ、特にイタリアはルネサンス以降、人間であること、人間性を追求してきた。こうした伝統、精神が深いところにあるから、教授のような強い信念が生まれるのだろう。僕たちは自信をもって"Homo sum."と言えるだろうか?人間とは何か、人間として恥ずかしくないのかが今、問われている。地理の授業で。