ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

考えさせられるピッツァ、Sorbillo

またしてもSorbillo(ソルビッロ)のピッツァを食べに行った。フランスに留学中の後輩がわざわざナポリに遊びに来てくれたので、ナポリナンバーワンのピッツァを食べないわけにはいかなかったのだ。ちなみに、ナポリはイタリア全土でピッツァが一番美味い街、とされている。その街の住民が、ナポリで一番のピッツァとして推すくらいだから、Sorbilloのピッツァの評価の高さがわかると思う。

前回訪問時より少し早く、開店三十分ほど前に着いたのだが、三連休の初日ということもあってか、行列が長めだった。開店と同時に入れるだけ客が入るのだが、ぼくたちは入りきれず、大人しく列をなして順番を待っていた。ところが、なぜだか店先に行列を無視した人だかりが形成され始める。それを見て、ぼくたちの後ろに並んでいた推定アメリカ人観光客が「なんだあいつら、横入りしまくってるじゃないか」などと文句を言い出す。さすがに様子がおかしいと思ったので、前に並んでいたイタリア人にどういうことか聞くと、なんと店先で名前と人数を告げなければいけないらしい。なんということだ、無駄に並んでしまった。これからSorbilloに行く人には本当に気をつけてもらいたい。開店前は行列が形成されて、開店と同時に入れるだけ入る。けれども、その後は行列は意味をなさない。この順番待ちシステムに気づかないで列を作り続けていたひとはぼくらを含めて少なくなかったと思う。なにしろわかるわけがない。アナウンス一切なし。というかこのシステムの存在自体が人だかりを介してなんとなく拡散していく。「これ並んでるんですか?」「いや、店先で名前と人数を言わなきゃいけないんですよ」というような会話が客の間で幾度となく繰り返され、人だかりの後方までじわじわと伝わっていく。ただしイタリア語なので、わからなければそれで詰む。おまけに、人だかりが大きすぎて順番待ちの名簿を書いている店員が見えない。名前を告げるだけで一苦労。

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Sorbilloの店先

 おわかりいただけるだろうか?旗やのぼりのあるあたりがちょうどSorbilloの入り口なのだが、人が多すぎて近づくことすらできない。さらにこの人混みのどこかに、名簿を書いている店員がいる。そこで名前と人数を告げれば、順番が回ってくるとマイクで呼び出される。ぼくらは結局一時間半ほども待ってしまった。

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水牛のモッツァレラチーズのせマルゲリータピッツァ

ともかく、ようやく入店してぼくらはなんとかSorbilloのピッツァにありつくことができた。一口目から、またしても言葉を失う。本当に美味しい食べ物に出会うと人は言葉を失う。ぼくも、一緒に食べた後輩も、何も言うことができなかった。信じられないくらい美味しいからだ。というか信じられなさすぎて今でも食べたことが信じられない。もしかすると実はあれは全て幻だったのかもしれないと疑ってしまう。食べたことが確信できなくなってしまうくらい美味しいピッツァ、それがSorbillo。そして考えさせられる。もはやどのように美味しいのかなどは表現できない。そもそもトマトのチーズの組み合わせを編み出したやつは天才なのではないか、という考えが頭をよぎる。そして湧き出てくる不甲斐なさ。アフリカではいまこの瞬間にも人が餓死しているのに、ぼくらはこんなものを食べていていいのか。いや、ぼくらの家族や友人だってこのピッツァを知らないのに、ぼくらだけこんなものを食べていていいのか。Sorbilloのピッツァを知らない全ての人に謝罪したいという気持ちが溢れ出てくる。人間は二種類にわけられる。Sorbilloのピッツァを知っているか、知らないかだ。こうなってくると頭の中のパニックが収まらない。フランス留学中の後輩も、Sorbilloのピッツァを食べた瞬間に留学の成功を悟ったらしい。ナポリ旅行中にフランス留学の成功を確信するとは。
不甲斐なさ、申し訳なさ、そして幸福。腹の底から幸福が全身に広がっていく。生きていてよかった。いままでの人生の選択の一つ一つが、この一枚のピッツァのために全て用意されたものだったのだと理解する。人が生きる意味があるとすれば、それはSorbilloのピッツァである。改めて言おう。ナポリを見て死ね。Sorbilloのピッツァを食べてから死ね。本当に。