ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

6000匹のイワシ

このところ、イタリアでは「イワシ」が話題となっている。それはぼくの地理の教授お気に入りの話題でもある。どういうことか?

ある朝、4人の若者たちは決意した。マッテオ・サルヴィーニ率いるポピュリストは受け入れられない。もううんざりだ、と。
サルヴィーニはイタリアの政党「同盟」の党首を務める政治家だ。移民への排外主義や、欧州懐疑主義によってここ10年ほどで支持を集め、一時は副首相の地位に就くまで至った。少なからず支持を受けているのだが、一方でフェイクニュースを垂れ流したりするので、反対勢力も極めて多い。でたらめは流す、差別的な表現をする、「ポンペイなんて石ころに税金を注ぐ意味がわからない」などと教養のかけらもない発言をするなど、雰囲気的にはトランプに近いところがある。

そんなサルヴィーニがボローニャの広場で選挙演説をすることになったとき、4人の若者たちは反対集会を行うことにしたのである。サルヴィーニの活動する広場は5000人強しか収容できないので、それならば我々は6000人を集めればいい、と考えたわけだ。そして、イワシのようにコンパクトに強く連帯しようというイメージで、6000匹のイワシの運動をスタートさせた。

Facebookでの呼びかけには多くの人々が呼応し、結果として反対集会には15000匹のイワシが集結した。特徴的なのが、この集会にはどんな政党のシンボルも、旗も掲げられていないことである。ただそこにあるのはイワシだけである。彼らはただ、もう、黙っていられない、耐えられない、うんざりしたのだ、もうやめろ、という気持ちを表明するために集まった。政治的な停滞、混乱、経済危機、長いことイタリアを苦しめている要素にもう倦んだイワシたちの集まりだ。そしていま、その6000匹のイワシの運動が、ボローニャにとどまらずモデナ、パレルモナポリ、ローマなどイタリア各地への広がりを見せている。

教授は言う。「みなさんはご存知ですかね、『イワシ』の運動。あなたたちは新聞を読まないですからね」。教授はいつものように、授業の途中でとつぜん話を脱線させる。「あれは新しい、良いことですね。たった4人の若者が新しい大きな流れを作った。この運動はどこへ行くと思いますか」。なんだか極めて政治的な話をしているが、今回の授業は経済活動としてのツーリズムとそれによる領域への影響なのでイワシもサルヴィーニもほとんど関係がない。どうしてこんな話になるのかがわからない。ただ、こうして気軽にデモだとか集会だとかの話が出るのはいいことだと思う。日本だとあまり馴染みがないかもしれないが、イタリアだとある種の文化祭であるかのように学生の頃からお祭り感覚で集会に参加したりするので、そこまで"重い"話題でもないのだ。だが、そんなお祭りはどこへ行くのか?「私はね、この運動はどこへもたどり着かないと思いますよ」。そうなんだ。せめてどこでもいいからたどり着いて欲しいのだが。「たしかに、あなたたちのような若者が声を上げて、新しい運動を始めたのは素晴らしい・・・。これからこの国の主役となるのは皆さんですからね。率直に言って、私は先が長くないから、この国の変化、行く末を見ることはできないでしょう」。70歳になる教授がいつも以上にどこか悲壮感あふれる話しぶりをするのでぼくは不安になる。「変化には時間がかかるでしょうから。それに、できれば行く末は見たくない。でもあなたたちには頼みますよ。あなたたちがなんとかしなければいけない、若い人はこの国の行く末を見ることになるのだから。だから・・・、いや、もうやめましょう、本題に戻りましょう」。もはや遺言なのか脅迫なのか、なんなのかわからない。「この国の行く末は見たくない」などと断言されてしまうのが辛い。明らかに教授はイタリアの未来を悲観していることをほのめかしながら、我々若者は嫌でもイタリアの行きつく先を見なければいけないという現実を突き付ける。そうして教授は学生たちを不安にさせるとツーリズムの話に戻ってしまった。イタリアはどこへ行くのか?どこへもたどり着かないのか?できればぼくも行く末は見たくない。