ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

紅葉とモーニング娘。と「日本スゴイ」

今週のお題「紅葉」

 そもそもぼくは「今週のお題」なるものがはてなブログに存在することを昨日初めて知ったのだが、知ってしまった以上はナポリの紅葉について書いてやろうと思ったは良いものの、まだナポリに紅葉シーズンは訪れていない。なんでも、紅葉は最低気温が8℃くらいになると進み始めるらしいので、もうしばらく先なのだろう。それともナポリでは紅葉は見られないのだろうか?いずれにせよぼくはまだ今シーズン、紅葉を見ていない。ではぼくは「今週のお題」に参加できないのか?そんなことはない。そもそも主題は紅葉ではないのである。結局、「紅葉」をテーマにして人が何かを語るとき、人は「紅葉」について語っているのではない。あなたが家族や恋人や友人と紅葉狩りをするとき、紅葉を見るとき、あなたたちが語るのは紅葉そのものについてではなく、あなたたちが紅葉から何を受け取ったか、ということなのである。あるいは自ら紅葉を見に行かなくても、誰かから紅葉の話をされれば、あなたたちは同様に何を感じたのかを語ることができるだろう。要するに、紅葉がお題であるとき、人が語るのは紅葉によってどんな心情を引き起こされたのか、あなたが何を考えたのか、何を連想したのかであり、主題は紅葉でなくあなたなのである。であれば、ぼくが紅葉を見ていなくても紅葉について書くことはできる。これに関連してピエール・バイヤールの『読んでない本について堂々と語る方法』という大変愉快な本がある。フランス人の著者らしくエスプリに溢れた書きぶりで、「人は読んでない本について語ることができる」と主張する何とも挑発的な本なのだが、曰く読んでない本についてもやはり勝手な印象や連想を語ることができるというのだから、紅葉について同じことができないわけがない。ところでこの本の邦題について、「堂々と」と入っているのが原題には相当する語がない。なぜ余計に挑発的にしたのかは謎だが、内容自体は極めて真面目であり、タイトルから連想されるようなハウツー本でもなく、教養や本を語るということについて深く考えさせられ、とても楽しく読めることに間違いないので皆様に推薦する。なお、ぼくとしてはここまでつらつらと堂々とこの本について書いたが、ぼくがこの本を読んだ、と言っていないことにはご留意いただきたい。

 さて、今週のお題に沿って紅葉について書こう。といってもナポリには紅葉シーズンは未だ到来していないし、そもそも紅葉シーズンが存在するのかどうかもぼくにはわからない。しかしこう書くと、イタリアには四季がない、と思う人がいるかもしれない。そんなことはない。そもそもイタリアは縦に幅がある国だし、半島だけでなくシチリアなど島もあり気候の変化に多様な国なのだ。そして四季がある。春になれば桜が咲くし、夏は熱くて海が綺麗だし、秋には紅葉するし、冬には雨が降ったり雪が降ったりする。紅葉はとくにミラノなど北のほうが多いようなイメージがあるが、フィレンツェ周辺のトスカーナ州や、内陸の山間部でも見られる。もちろん、ぼくはそんな紅葉を見たことはない。

 ともかく、紅葉とは四季のうち秋を象徴する現象である。とはいえ近頃の日本は気候変動により、ほとんど夏と冬、そしてごく短い季節の移行期間があるのみで、日本にもはや四季はなく、あるのは死季だ、と主張する論者も存在する(日本には死季がある - 6週間以内に獣医の勉強を始めなかったので死ぬ)。しかしながら依然として四季は日本人の心の内に強く存在し、日本が誇れることランキング1位に「四季がある」ことがランクインするほどである。ところで実際には、四季は世界中の様々な地域に存在する。そのため近頃流行りの「日本スゴイ」論に見られるような自惚れた勘違いを揶揄する意味で「日本には四季がある」と言われることがある。「四季」とはもはや、何も特別でない事象をあたかも日本特有であるかのように勘違いしたり、あるいは外国人に「日本スゴイ」と言わせる非生産的自慰行為を揶揄するパワーワードに変化したのだ。その意味で今も日本の文化に根ざす四季の影響力は極めて大きい。

 しかしながらこの「日本スゴイ」論は一体なぜ生まれたのか?

 人々の行動の背景には必ず社会―経済的な影響がある。モーニング娘。が『LOVEマシーン』を歌った頃、日本の未来は全くもってウォウウォウウォウウォウではなかった。とうの昔にバブルが崩壊した世紀末の日本は、のちに「失われた10年」と言われることになる不景気の真っ只中にあったし、「就職氷河期」と呼ばれる就職難の時代でもあった。実際、『LOVEマシーン』の歌詞にも不景気が歌われている。

 どんなに不景気だって 恋はインフレーション
 こんなにやさしくされちゃ みだら
 明るい未来に就職希望だわ
 Woo wow wow wow 

LOVEマシーン』のメッセージは明快である。どんなに不景気でも恋心は膨らむ。恋愛をして厳しい現実に立ち向かっていけというのである。「明るい未来に就職希望」には当時の若者の願いが現れていると言っても過言ではないだろう。そして曲はサビに突入する。

 日本の未来は(Wow Wow Wow Wow) 
 世界がうらやむ(Yeah Yeah Yeah Yeah) 
 恋をしようじゃないか!(Wow Wow Wow Wow)
 Dance!Dancin' all of the night 

 日本の未来はウォウウォウウォウウォウ、世界がうらやむイェイイェイイェイイェイ。絶望的な不景気、先の見えない不安な時代だからこそ『LOVEマシーン』は圧倒的なヒットを記録した。当時からして日本の未来は明るくなかったが、だからこそ見通しが甘すぎるくらいの明るい曲が、来る新世紀への希望と相まって、世間を勇気づける曲として求められたに違いない。

 ところが今の日本はどうだろうか。モーニング娘。はもはや日本を巻き込んだムーヴメントを起こせるようなグループではなくなってしまった。たとえいま、日本の未来はウォウウォウウォウウォウと歌っても白い目で見られてしまうことだろう。
失われた10年」はもはや「30年」になろうとしている。実感のない景気回復、少子高齢化、地方衰退……。モーニング娘。の時代から日本の未来は明るくなかったが、いよいよ現代日本ではこれまで温められてきた不安要素が顕在化し始め、誰もがそれを肌で感じている。もはやウォウウォウウォウウォウという呑気な掛け声では勇気づけることもできないくらいに、日本は、その国民の主観的にも、客観的にも、悲観的な時代にどっぷりと浸かっている。

 かつてないほどに先行きが不透明な時代、いやむしろ明快なほどに日本撃沈が意識される時代だからこそ、モーニング娘。はもはや流行らないのである。代わりに誕生したのが「日本スゴイ」論である。あまりにも長すぎる停滞、暗すぎる見通し、加えて新興国の台頭でかつて日本が築いた世界第二位の大国としての地位は失われ、それに伴い日本、そして日本人の誇りも大きな危機に晒されたのである。元来日本人はアジアで唯一の先進国であった。開国以来追いつけ追い越せで欧米に続き、世界およびアジアでの地位を確固たるものにした。それが21世紀の幕開けとともに揺らいだのだ。今や世界第二位の大国は中国であるし、さらに韓国ほかアジアの新興国が日本の地位を脅かしている。こうした状況下であるからこそ、日本には誇りが必要なのだ。「日本スゴイ」論はまさに時代の要請に基づいて誕生した。今の日本は苦しいが、それでも日本には凄いものがある、誇れるものがある、というある種の安心感を提供するのためだ。苦しい時代だからこそ安心感が求められるのだ。問題は「日本スゴイ」論がまやかしであり、非生産的な自慰行為であることだ。『LOVEマシーン』であれば、恋や愛を励ましに各個人が主体的な原動力となって何かを生み出したかも知れない。一方で「日本スゴイ」論は自惚れ以外の何も生み出さない。わざわざ外国人に「日本のここがスゴイ」と言わせても、結局のところそれは日本人が聞きたいことを外国人の口を介して聞いているだけであって、自慰行為以外の何物でもないのである。あるいは誰か日本人が海外で活躍していたり、日本の工業製品が海外で評価されていたとしても、そのとき活躍している主体は個々人ではなく誰か他人なのである。他人の行為を見て自己陶酔に浸る、これもまた自慰行為に他ならない。そうしてどこかの誰かと自分を「日本人」というだけの結びつきで同一化し、その業績に自惚れるわけだが、自惚れているだけなので何かを生み出すことはできない。かつてないほどに不安定な状況、社会―経済的な問題が山積する状況だからこそ、喫緊の課題から目をそらし、日本はスゴイと思い込むことで安らぎを得させる「日本スゴイ」論が求められているのである。