ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

人はなぜネトウヨになるのか

I giovani devono viaggiare, perché viaggiando si può capire gli altri. Viaggiando si può capire che le differenze sono un valore e non un problema. - Renzo Piano

若者は旅をしなければならない。旅をすれば人を理解できるからだ。

旅をすれば、違いとは価値であって問題ではないことがわかる。

-レンゾ・ピアノ

今日、夢に父が出てきた。何を話すわけでもなく、ぼくが車の運転をしている横の助手席に座っていたのだが、去年あまりにも突然早死にしたものだから、久しぶりに夢に見て、「もう一度会えたら」などと思ってなんとなくしんみりとした気持ちで一日を過ごしたのである。

ところが、先ほどツイッターを見ていたらフォロワーがネトウヨとバトルしていて、大事なことを思い出した。父はネトウヨだったのである。お互いの仕事の都合であまり食事を共にすることはなかったが、時折夕食などで一緒になり、テレビから「特定アジア」のニュースが流れると大変不愉快な思いをしたものである。「中国人は下品」だの、「韓国人は気違い」だの、聞くに堪えない差別的な暴言を吐いていて、つまるところ、父は典型的なネトウヨだったわけだ。「パヨク」なる言葉を当然通じるものとしてぼくに使ってきたのも、父がいかに狭い世界に浸っているのかを示すものだった。そんなことを思い出し、早死にしたのは残念だったが、ネトウヨの症状が悪化する前に(それともあれはすでに末期症状だったのだろうか?)逝ってくれたのは必ずしも悪いこととは言えない気がして、複雑な気持ちになった。

ぼくは差別を受けたことがあるし、今も受けることがあるから思うのだが、こうした差別ができる人は想像力に欠けているのだろう。差別をされたり、暴言を吐かれたりする被害者がどんな気持ちになるのかわからないに違いない。日本という均質性の高い空間で日本人として生きていると、なかなか自分が被害者になる経験がないから、いまいち理解できないのかもしれない。しかし、平気で誰かを傷つけることができるというのがまさに理解できない。人の気持ちを慮るというか、共感するというか、エンパシーを感じるというのは人間として根本的な部分だと思うのだが、世の中にはその根本的な部分がぶっ壊れている人間が多すぎてつくづく辟易する。