ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

元上司の膀胱が巨大だった話

イタリアに来る前、僕は日本で企業勤めをしていた。あるとき、いろんなことが重なって何もかもいやになり休職からの退職というコンボを決めた。休職してから会社には顔も出さなかったので、ろくにあいさつもせず、半ば音信不通となる形でそのままイタリアに来てしまったわけだ。

時は流れて僕は留学を終え、イタリアで働く身となった。そして先日、一時帰国した折に前職の同期と再会し、いくらなんでも失礼が過ぎたという思いから、今も会社に在籍している同期に、当時僕が大いにお世話になっていた直属の上司、A課長によろしく伝えるよう頼んだのである。

すると驚いたことに、A課長は現在、駐在員としてドイツで働かれているというのである。さらに7月になって、「直接連絡したいから、よければメールしてくれ」と同期づてに連絡をいただいたので、僕は極めて丁重に無礼を詫びる文面を書き、その上で「今はナポリにいるので、お越しいただければご案内します」と結んだ。

するとA課長は「本当に行きますよ?」と返事をしてきた。思うに、僕がナポリにいることを知ったうえで、最初からあわよくばナポリに来るつもりで連絡を求めてきたのだろう。一方で、よくわからないまま休職・退職コンボを決められたことや、当時直属の上司だったことから、ある種責任を感じていて、また僕が何もかもいやになることがないよう配慮してくれたのだろう。Aさん、僕はあなたのそういう優しいところを尊敬しているんですよ。というわけで、「ナポリを見て死ねと言いますから」と本気の招待をし、トントン拍子でA課長ナポリに来ることになった。

A課長は2日間ナポリに滞在することとなり、僕は両日喜んでガイド役を買って出た。初日は午後2時に落ち合い、観光名所を巡りながらエスプレッソを飲んでいただいたり、ジェラートを食べていただいたり、アペリティーを楽しんだりした。アペリティーボとは、夕食前に軽くおつまみをつまみながら、お酒を楽しむことである。夕食はもちろんピッツァビール。そして、翌日はポンペイに行くことを約束し、出発が朝早くになるため夜9時に解散した。この間、A課長は一度もトイレに行かなかった。

イタリア生活における僕の持論は「トイレは行けるときに行け」である。街中に公衆トイレが存在しないので、どんなに尿意がなくても観光施設やレストランなどでトイレに行っておかないと後で困ったことになるからだ。トイレを借りるためにバールに入り、「トイレを使うだけでは申し訳ないから」とエスプレッソを頼んだりすると目も当てられない事態になる。カフェインの利尿作用でまたトイレ探しが始まるのである。

ゆえに僕はことあるごとにトイレを勧めていた。バールで、ジェラート屋で、アペリティーボで、ピッツェリアで。Aさん、あそこにトイレがありますよ。突き当たり左です。「おう、ありがとう。でも大丈夫」。「Aさん、膀胱がでかいなぁ」と僕が感心しているのも知らずに、A課長は近況を語り続ける。僕の元先輩が何だか変な様子でやめていったこと、それをとても心配していること。あるときストレスによる歯ぎしりで奥歯が砕けたこと。忙しすぎて徹夜して、一睡もせずそのまま出社したこと。一日中ぶっ通しで働いていて食事を取るのも忘れていて、深夜の富士そばでそばとカレーのセットを注文したこと。ところがあまりの疲れに食欲がわかずカレーを一口も食べずに返却したこと。笑えない社畜エピソードにもかかわらず、A課長は面白おかしく語るのである。Aさん、僕はあなたのトーク力も尊敬しているんです。こんなブログじゃAさんの面白さの百分の一も伝えられないのが残念です。それに、自分は猛烈に働いているのに、部下には決して同じことを求めないのもAさんのいいところなんですよ。家族がいるだろう、生活があるだろうって気にかけているんですよね。だから変な感じでやめた先輩のことも気にかけているし、もう3年もたつのに僕の様子を気にしてナポリに来られたんですよね。それでわざわざ「あのとき渡せなかったから」なんて言って餞別まで下さるんですよね。当時からAさんはすごく部下思いで、責任感のある課長だったんですよ。僕はあの会社を辞めたことを後悔したことは一度もないですけど、それでもAさんのような上司に巡り会えたことは本当に幸せなことだったと思います。こんなにこまごまとは言わなかったですけど、お酒も入っていたので「Aさんが上司で良かった」と言ったとき、一瞬心を打たれていたのを僕は見逃しませんでしたよ。僕がAさんにとって良い部下だったかどうかはわかりませんけど、今回の旅行で少しでも恩返しができたなら嬉しいです。

二日目、約束通り午前中はポンペイの遺跡を巡った。遺跡の出口で僕がトイレに行くと言うと、驚いたことにA課長も用を足した。しかしなかなか出てこない。数分たってようやく出てきたと思うと、「いや〜私が用を足している間に隣は4、5人変わったね」とA課長。「自慢じゃないんだけど、めちゃくちゃ小便我慢できるんだよ。我慢してるって感覚もないんだけどさ。その代わり、トイレでは常人の何倍もドボドボ出続けるんだ」。Aさん、やっぱり私はあなたを尊敬しています。