ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

イタリア古典文学の筆記試験

今日、ぼくはイタリア古典文学の筆記試験を受けてきた。

試験といっても最終的に成績の決まる試験ではない。正式な試験は年が明けてから、口頭試問で行われる。イタリアの試験は基本的に口頭試問である。が、一度にすべてを決めるのも良くないし、また学生にとっても途中で確認試験があったほうがいいだろうという教授のはからいで、学期の途中ながら筆記試験が行われたのだ。

ところが学期途中と言っても、ぼくにとってはイタリア古典文学の授業はすでに終了している。ぼくはイタリア古典文学の授業で6単位を取らなければいけないのだが、6単位を履修する学生は11月末までで授業が終わるのだ。一方で8単位を取る学生は年明けまで授業に通う。なかなか不思議なシステムだが、そういうものなのだ。

そんなわけで、ぼくにとっては名目上は中間試験ではあるが、授業はすでに完了しているし、それゆえ実質的には最終試験で問われるものと内容が変わらないわけだから、確認の意味も込めて受験してきたわけだ。しかし試験はあくまで任意で、最終試験に影響するかしないかは学生が選ぶことができる。何を言っているのかよくわからないだろう。

つまり、筆記試験は任意。中間試験ではあるが、6単位を履修する生徒には内容的には中間ではなく全範囲の試験である。かつ、もしも筆記試験がいい成績であれば、年明けに行われる口頭試問による最終試験一発で成績を決めることなく、筆記試験の結果を評定の一部として利用できる。筆記試験を受験しなかったり、成績が悪かったら、口頭試問の一発勝負で成績を100%決めることになる。なんだかやけに複雑だが、要するに筆記試験はやってもやらなくてもいいけど、もしもいい点数だったら成績配分に組み込んで最終評定で有利になることもできるよ、ということである。

つまりあくまでも中間試験なので、結局年明けには最終試験を受けなければいけないらしいのだが、筆記試験を受ければ最終試験を免除されるという説も出回っており誰にもなにもわからない。そもそも教授があいまいな言い方をするので混乱が生じるのだ、「確認試験は任意ですが、いい成績を取ったら、口頭試験はまあ、私と気軽に話にきてください」などと言うのである。「気軽に話す」とはなんだ?お茶でも飲むのか?そもそも6単位しか必要ない学生からしたら筆記試験も口頭試験も書くか話すかの違いしかないわけで、わざわざ2回やる必要があるのかという問題もあり、結局我々は最終試験を受けなければいけないのか否か不明である。頼むからはっきりしてくれ。

ともかくぼくは筆記試験を受けてきた。

試験自体は主にダンテの『神曲』について、あるいはそこから影響を受けたFederico FrezziやらPaolo Regioといった詩人についての質問が12個あり、そのうちいくつかを選んで自由回答するというものだった。8単位を取る学生は最低でも8個、6単位の学生は6個、外国人生徒は4〜5個回答せよ、という指示だった。偉大な配慮である。そんなわけでぼくは5個だけ回答したのだが、それでも時間ギリギリいっぱいだった。いくらネイティブといえども、あの時間では8個回答できるとは思えない。8単位の学生にとっては少し厳しかったのではないか。

設問は「ダンテは人文主義者か?」「『神曲』から一曲を選んでその内容・構成を説明するとともに言語的な特徴を指摘せよ」「『神曲』天国編における光・調和・幸福について書け」などといったもので、本当に頭がおかしくなるかと思った。もちろんちゃんと勉強をして備えてはいたのだが、日本ではあまりない形式の試験だし、そもそもそんなことをイタリア語で大真面目に書くのは大変つらい。いくら確認試験とはいえ重すぎるよ。

ところで最終試験ではないとはいえ、やはり成績に関係する試験ではあるのだから厳正に行われるのかと思われたが、そんなことは全くなかった。学生同士が普通に話し合って助け合っているのである。いやもちろん大声で騒いでいるわけではないのだが、「これわかる?」「それはね〜」などと説明する声が聞こえてくる。そもそも任意だし、自由回答式という慣れないものだし、平気でカンニングまがいの行為をしているし、試験というものを考えさせられる経験であった。