ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

異邦人になるということ

 

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 以前にも書いたのだが、ぼくはここナポリでは明らかに異邦人である。そして、異邦人としてそれ相応の経験をする。差別、ステレオタイプ、偏見。店先から「ニーハオ」と声をかけられるくらいのことはまだいい。東アジア人=中国人なのだろう。酷いと、すれ違いざまに暴言を吐かれたりするから、敵意がないだけマシだ。だが、悪意がなくても安心はできない。たとえば、「日本人は清潔だから」好きだ、というようなことを言われることがときどきある。じゃあ、韓国人や中国人だったり、ラオス人だったらどうなんだ、と思う。言外に、ほかの人たちに対する無意識な偏見を感じてしまう。こういうことを友人から言われると、ひそかな悲しみを覚えずにはいられない。あなたがぼくと一緒にいるのは、日本人が好きだからなのですか、それともぼくが好きだからなのですか、と聞きたくなる。自分が属する集団が高く評価されることが悪いとは思わない。ぼく自身、それによって恩恵を受けていることは否定できない。けれども、その代わりに誰かが中国人だから、韓国人だから、というそれだけの理由で貶められたり偏見を受けたりするのなら、ぼくには耐えられない。そして、その偏見が無意識であるからこそ、より一層事態は深刻なのだと思える。それが問題だと気づかない程度に偏見が内面化されてしまっている。

そして、こういう話をすると、「偏見はどこにでもあるからしょうがない」とか、「日本人だってガイジンを差別したりするだろう」とか言われてしまう。ある意味でぼくを慰めるためだったり、現実を受け入れさせるためだったりするのだが、ぼくとしては考えれば考えるほど納得ができない。差別、偏見、ステレオタイプはどこにでもある。たしかにそうだ。日本人だって外国人を差別する。それもそうだ。しかし、だからなんなのか?日本人も差別する。偏見はどこにでもある。紛れもない事実だ。その紛れもない事実を突きつけられると、ますます息が詰まるような気がする。どうしてわざわざぼくまで、差別や偏見を内面化しなければいけないのか?あまりにもぼくらの文化に深く根ざしている差別や偏見について、改めて現実を突きつけられると、本当に無力さを感じてしまう。悪意があったり、なかったり、無意識だったり、意識的だったり、いろんな形でどこかの誰かが差別や偏見の対象になっていると考えると、現実として受け入れて諦めるどころか、ますます不愉快で絶望的な気持ちになってくる。

こういう感覚は、自分自身が異邦人にならないとわからないものなのかもしれない。もうだいぶ前の話になるが、イチローが引退会見をしたときに、彼は「アメリカに来て、外国人になって、人の心を慮る」ようになったと言った。ぼくは、ナポリに来る前にもローマで生活した経験があったから、会見を見て、イチローの言葉にとても共感した。いま、ナポリで生活しながら、ふと、そのことを思い出したのだ。異邦人とか、外国人とか、いろいろ言い方はあるが、要するに自分がある集団のなかで異質な存在となると、良くも悪くも痛みや孤独を感じる瞬間がある。偏見や差別の対象となることがある。だからこそ、そういうものに対して敏感になるし、あるいは誰かがその対象とはなっていないか、自分自身が加害者となっていないか、いろいろと気をつけたり、誰かの気持ちを汲み取るようになるわけだ。本当に誰かに共感(エンパシー)を覚えることができるようになったのは、少なくともぼくの場合は、異邦人になってからである。