ナポリを見たら死ぬ

南イタリア、ナポリ東洋大学の留学記。なお実際にはナポリを見ても死ぬことはありません。

大学の入学許可証を依頼するイタリア語メール

 

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 このブログの最初の記事にも書いたのだが、ぼくはいま通っている大学院に入学するにあたって、個人的に教授にお願いして入学許可証を書いてもらった。イタリア語では"Lettera di idoneita' accademica"とか"Lettera di idoneita' all'immatricolazione"などと呼ばれるレターだ。このレターはイタリアへの留学手続き上、どうしても必要だった。

たとえば日本の大学に在学している学生が交換留学をするのなら、たぶん留学先の大学が正式な受け入れ承諾書みたいなものを発行してくれるのだろうが、ぼくみたいに文字通りの意味で入学する場合や、あるいは交換留学ではない私費留学をする場合には、入学許可証が必要になる。これがないとビザが下りないからだ。もちろん、正式に入学試験を受けて発行してもらうこともできるが、試験を受けるためだけにわざわざイタリアまで往復するなどというのは現実的ではない。なので、受講を希望する学科なり授業なりの教授に個別で連絡をして、許可証を書いてもらうのが手っ取り早い。

そんなわけで、あまりこんな例文を必要とする人がいるとも思わないが、教授に「入学許可証を書いて頂けないでしょうか」とお願いするメール例を書いておく。というか、ぼくが実際に送ったメールをほぼそのまま記載する。ネイティブ監修済みなので問題はないはずだ。

Gent.mo professore Boccaccio,

sono Taro YAMADA, un laureato giapponese in letteratura e cultura italiana.
Le scrivo per chiedere se risulto idoneo al corso di Laurea Magistrale in "(コース名)" e nel caso, se potesse gentilmente scrivermi una lettera di idoneità.

Laureatomi nel 20XX, ho iniziato a lavorare per una compagnia,
ma per approfondire la mia conoscenza sulla cultura italiana ora vorrei iscrivermi al corso dell'anno accademico 2019/2020.
Pertanto, vorrei per favore chiederLe di dare un'occhiata ai file allegati, ovvero il certificato degli esami sostenuti e il certificato di laurea, e di farmi sapere se sono idoneo al corso.
In caso di idoneità, mi servirebbe gentilmente una lettera che lo specifichi perché io possa poi presentarla all'Istituto di Cultura Italiana in Giappone e proseguire con le procedure d'immatricolazione esonerandomi da eventuali esami d'ammissione.

Necessito di sapere se sono idoneo e della lettera da parte Sua in quanto dovrei lasciare il mio attuale lavoro prima di effettuare l'iscrizione, ma non vorrei rischiare di perderlo per poi non risultare idoneo.

Intanto mi scuso per il disturbo e La ringrazio per l'attenzione.

Cordiali Saluti,
Taro YAMADA

 

名前やコース名など都合に合わせて変えればだいたいそのまま使えるだろう。ぼくの場合、一応働いていたので、仕事を辞めてから入学できないとただの無職になるという問題があり、リスクは犯したくないから入学許可を出してくれといったことが書かれているが、 このあたりの理由付けも適当に書き換えれば良いだろう。というか、肝心なのは大学の成績証明書や卒業証明書、場合によってはイタリア語の検定資格などの各種証明書を添付することと、手続き上入学許可証が必要だということなので、それ以外はあまり重要ではない。消しても構わないかもしれない。

イタリア語で失礼のないメールを書くのはなかなか簡単ではないことだと思うので、よかったら参考にしてほしい。

6000匹のイワシ

このところ、イタリアでは「イワシ」が話題となっている。それはぼくの地理の教授お気に入りの話題でもある。どういうことか?

ある朝、4人の若者たちは決意した。マッテオ・サルヴィーニ率いるポピュリストは受け入れられない。もううんざりだ、と。
サルヴィーニはイタリアの政党「同盟」の党首を務める政治家だ。移民への排外主義や、欧州懐疑主義によってここ10年ほどで支持を集め、一時は副首相の地位に就くまで至った。少なからず支持を受けているのだが、一方でフェイクニュースを垂れ流したりするので、反対勢力も極めて多い。でたらめは流す、差別的な表現をする、「ポンペイなんて石ころに税金を注ぐ意味がわからない」などと教養のかけらもない発言をするなど、雰囲気的にはトランプに近いところがある。

そんなサルヴィーニがボローニャの広場で選挙演説をすることになったとき、4人の若者たちは反対集会を行うことにしたのである。サルヴィーニの活動する広場は5000人強しか収容できないので、それならば我々は6000人を集めればいい、と考えたわけだ。そして、イワシのようにコンパクトに強く連帯しようというイメージで、6000匹のイワシの運動をスタートさせた。

Facebookでの呼びかけには多くの人々が呼応し、結果として反対集会には15000匹のイワシが集結した。特徴的なのが、この集会にはどんな政党のシンボルも、旗も掲げられていないことである。ただそこにあるのはイワシだけである。彼らはただ、もう、黙っていられない、耐えられない、うんざりしたのだ、もうやめろ、という気持ちを表明するために集まった。政治的な停滞、混乱、経済危機、長いことイタリアを苦しめている要素にもう倦んだイワシたちの集まりだ。そしていま、その6000匹のイワシの運動が、ボローニャにとどまらずモデナ、パレルモナポリ、ローマなどイタリア各地への広がりを見せている。

教授は言う。「みなさんはご存知ですかね、『イワシ』の運動。あなたたちは新聞を読まないですからね」。教授はいつものように、授業の途中でとつぜん話を脱線させる。「あれは新しい、良いことですね。たった4人の若者が新しい大きな流れを作った。この運動はどこへ行くと思いますか」。なんだか極めて政治的な話をしているが、今回の授業は経済活動としてのツーリズムとそれによる領域への影響なのでイワシもサルヴィーニもほとんど関係がない。どうしてこんな話になるのかがわからない。ただ、こうして気軽にデモだとか集会だとかの話が出るのはいいことだと思う。日本だとあまり馴染みがないかもしれないが、イタリアだとある種の文化祭であるかのように学生の頃からお祭り感覚で集会に参加したりするので、そこまで"重い"話題でもないのだ。だが、そんなお祭りはどこへ行くのか?「私はね、この運動はどこへもたどり着かないと思いますよ」。そうなんだ。せめてどこでもいいからたどり着いて欲しいのだが。「たしかに、あなたたちのような若者が声を上げて、新しい運動を始めたのは素晴らしい・・・。これからこの国の主役となるのは皆さんですからね。率直に言って、私は先が長くないから、この国の変化、行く末を見ることはできないでしょう」。70歳になる教授がいつも以上にどこか悲壮感あふれる話しぶりをするのでぼくは不安になる。「変化には時間がかかるでしょうから。それに、できれば行く末は見たくない。でもあなたたちには頼みますよ。あなたたちがなんとかしなければいけない、若い人はこの国の行く末を見ることになるのだから。だから・・・、いや、もうやめましょう、本題に戻りましょう」。もはや遺言なのか脅迫なのか、なんなのかわからない。「この国の行く末は見たくない」などと断言されてしまうのが辛い。明らかに教授はイタリアの未来を悲観していることをほのめかしながら、我々若者は嫌でもイタリアの行きつく先を見なければいけないという現実を突き付ける。そうして教授は学生たちを不安にさせるとツーリズムの話に戻ってしまった。イタリアはどこへ行くのか?どこへもたどり着かないのか?できればぼくも行く末は見たくない。

海外の銀行:N26を留学用口座として使う

 

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 以前にも紹介したN26。口座開設手続きは8分で済むうえに、スマホとパスポートさえあれば、サービスの展開されている国ならどこでも使えるというすごい銀行だ。
その点で、ぼくは特にイタリア関係者のみなさんにN26をおすすめしたい。というのは、ほかの国の事情はしらないが、イタリアの他の銀行はしばしば口座開設手続きに「イタリア政府発行の身分証明書」が必要になるのだ。多くの場合、「滞在許可証」がその条件を満たす唯一の身分証明書となると思うが、銀行口座はすぐにでも必要なのに滞在許可証は半年たっても手に入らない、ということが平気で起こる。ぼく自身、少なくともあと3ヶ月は滞在許可証が手に入らないことが確定している。そのため、下記のメリットや簡単に開設できることを考慮すると、N26が現実的には唯一の選択肢になってしまうのだ。簡単に開設できるといっても、ぼくの場合、イタリアの郵便事情がひどいので、キャッシュカードを手に入れるまで2ヶ月近く待ったけど。

ともかくN26のメリットは口座維持手数料がかからないことと、ATMからの引き出しや振り込みなどにも手数料がかからないことだ。完全に無料で使える。細かいことは冒頭の関連記事を読んでいただきたいのだが、とにかく留学生活で使うのなら、日本の銀行のデビットカードを海外利用するよりもお得になる。余計な為替手数料やらATM利用手数料やらがないからだ。

さらに良いことに、N26は口座を開設するとキャッシュカード兼デビットカードが送付されてくるのだが、このカードを使うとすぐにアプリに通知がくる。そして利用履歴が残る。

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N26アプリのメイン画面

これはN26のアプリで見られる自分の口座情報だ。口座の残高だけでなく、ぼくがデビットカードを、いつ、どこで、いくら利用したのかという記録も確認できる。そして感動的なのが、自動的に家計簿をつけてくれて、統計をとってくれることだ。

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家計簿

こんなふうに、月ごとにショッピングにいくら、食材にいくら、ATMでいくら下ろしたたかなど、わざわざ自分で記録しなくても全部自動で記録してくれる。ちなみに、ぼくは先日プロテインを買ったため今月の出費が膨らんでいる。そんなことまで後から見直したときにすぐにわかる。「11月はプロテイン買ったからな〜」とすぐに納得ができる。ちなみに、プロテインはショッピングの枠に自動で分類された。N26の判定基準ではプロテインは食材ではないらしい。まあ、ぼくとしてはそこまでこだわらないのでそのままにしているが、もしも気になるのなら手動でカテゴリーを変更することもできる。

そんなわけで、もしも留学など海外生活で銀行口座をどうするか悩んでいるなら、N26をおすすめする。

アックア・アルタという恥:モーゼ・プロジェクト

「なぜイタリアでは何事も上手くいかないのか」というのは地理の授業の教授から投げかけられた問いである。とはいえ、それは誰もがしばしば考える問題なのだが。「他の国では解決される問題も、この国では決して解決しない」と教授は嘆く。「ヴェネツィアでの出来事、皆さんもご覧になっているでしょう。あれは、イタリアの恥ですよ。他の国ならあんなことはあり得ない」。日本でも報道されているようだが、ヴェネツィアでは先週頃から、アックア・アルタと呼ばれる高潮による市街への浸水被害が起きている。もともと、ヴェネツィアは潟の上に建設された街であるし、海抜も低いところにあるから、ちょっとした条件が重なって高潮が発生すると街が沈んでしまうのである。アックア・アルタの頻度は年々増加している。今回は特に規模が大きく、観測史上二番目の浸水度であった。

もちろん、高潮に対する対策がないわけではない。1966ヴェネツィアは過去最大の浸水に見舞われた。通常潮位より+194cmという高潮だ。それを機に対策の必要が認識され、そのための法律的な手続きなども進められ、1990年頃からモーゼ・プロジェクトと呼ばれる計画が検討される。そしてついに2003年にモーゼと呼ばれる可動式の堤防の建設が始まった。この堤防は通常時は海面下で眠っているのだが、高潮時には立ち上げられてヴェネツィアのある湾内への水の侵入を防ぐすごいやつなのだ。それはいいのだが、大きな被害から建設開始までにすでに40年近くが経過していることが嘆かわしい。こういう、効率の悪さ、仕事の進まなさ、動きの遅さがイタリア人にとってはなのである。アックア・アルタに限らず、なにかしらイタリアという国の機能不全が報じられると、イタリア人はしばしばという言葉を使う。どうして他の国ではありえないような問題がイタリアでは発生するのか、という怒りにも似た嘆きである。ぼくも常々不思議に思っているのだが、いまのところ、まだ答えを得ていない。
ともかく、モーゼ・プロジェクトは始動した。ところが、未だに完成していない。半世紀が経ったというのにヴェネツィアには高潮への有効な対策がないのである。贈収賄事件、環境破壊への懸念、そもそも以上に高すぎるコストなど様々な問題を積み上げてきたモーゼ・プロジェクト。今のところ、完成は2021年末ということになっているが、すでに遅れに遅れているのでもはや誰も信用していない。なぜこんなことになってしまうのだろう。さらに悪いことには、誰もこの問いに対する答えを持っていないのである。イタリア人の嘆き、恥ずかしがる気持ちもよくわかる。

異邦人になるということ

 

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 以前にも書いたのだが、ぼくはここナポリでは明らかに異邦人である。そして、異邦人としてそれ相応の経験をする。差別、ステレオタイプ、偏見。店先から「ニーハオ」と声をかけられるくらいのことはまだいい。東アジア人=中国人なのだろう。酷いと、すれ違いざまに暴言を吐かれたりするから、敵意がないだけマシだ。だが、悪意がなくても安心はできない。たとえば、「日本人は清潔だから」好きだ、というようなことを言われることがときどきある。じゃあ、韓国人や中国人だったり、ラオス人だったらどうなんだ、と思う。言外に、ほかの人たちに対する無意識な偏見を感じてしまう。こういうことを友人から言われると、ひそかな悲しみを覚えずにはいられない。あなたがぼくと一緒にいるのは、日本人が好きだからなのですか、それともぼくが好きだからなのですか、と聞きたくなる。自分が属する集団が高く評価されることが悪いとは思わない。ぼく自身、それによって恩恵を受けていることは否定できない。けれども、その代わりに誰かが中国人だから、韓国人だから、というそれだけの理由で貶められたり偏見を受けたりするのなら、ぼくには耐えられない。そして、その偏見が無意識であるからこそ、より一層事態は深刻なのだと思える。それが問題だと気づかない程度に偏見が内面化されてしまっている。

そして、こういう話をすると、「偏見はどこにでもあるからしょうがない」とか、「日本人だってガイジンを差別したりするだろう」とか言われてしまう。ある意味でぼくを慰めるためだったり、現実を受け入れさせるためだったりするのだが、ぼくとしては考えれば考えるほど納得ができない。差別、偏見、ステレオタイプはどこにでもある。たしかにそうだ。日本人だって外国人を差別する。それもそうだ。しかし、だからなんなのか?日本人も差別する。偏見はどこにでもある。紛れもない事実だ。その紛れもない事実を突きつけられると、ますます息が詰まるような気がする。どうしてわざわざぼくまで、差別や偏見を内面化しなければいけないのか?あまりにもぼくらの文化に深く根ざしている差別や偏見について、改めて現実を突きつけられると、本当に無力さを感じてしまう。悪意があったり、なかったり、無意識だったり、意識的だったり、いろんな形でどこかの誰かが差別や偏見の対象になっていると考えると、現実として受け入れて諦めるどころか、ますます不愉快で絶望的な気持ちになってくる。

こういう感覚は、自分自身が異邦人にならないとわからないものなのかもしれない。もうだいぶ前の話になるが、イチローが引退会見をしたときに、彼は「アメリカに来て、外国人になって、人の心を慮る」ようになったと言った。ぼくは、ナポリに来る前にもローマで生活した経験があったから、会見を見て、イチローの言葉にとても共感した。いま、ナポリで生活しながら、ふと、そのことを思い出したのだ。異邦人とか、外国人とか、いろいろ言い方はあるが、要するに自分がある集団のなかで異質な存在となると、良くも悪くも痛みや孤独を感じる瞬間がある。偏見や差別の対象となることがある。だからこそ、そういうものに対して敏感になるし、あるいは誰かがその対象とはなっていないか、自分自身が加害者となっていないか、いろいろと気をつけたり、誰かの気持ちを汲み取るようになるわけだ。本当に誰かに共感(エンパシー)を覚えることができるようになったのは、少なくともぼくの場合は、異邦人になってからである。